人生の目的と業(カルマ)について
最近、「人生の目的」について聞かれることがあった。「人生の目的」を改めて考えてみるとなかなか難しい問題である。「人生の目的とは」と聞くと何かあらかじめ決まっているような感じもあり、あるいは誰かに決められているような感じもある。ただ、そもそも、そんなものがあるのかという気もする。人間何か苦難に直面するとそういったことも考えたりすると思う。
ただ、どうだろうか。「人生の目的」を何か特定の何かと捉えると少し窮屈な感じはしないであろうか。あるいは誰かに(一般的には神と言われる存在か?)に決められているとするとそれはそれで何となく縛られている感じがしてこれも嫌な感じがする(個人的な感覚かもしれませんが)。そもそも神という存在が存在するのか(神など存在しない、人間は死んだらゴミになるだけという人もいるが、少なくとも自分をこの世界に生み出した存在は否定できないと思う。その未知なる存在を仮に神としておく)、存在するとして神と自分とはどのような関係にあるのか・・・。自分とは別の存在が何かをさせるためにこの世界に送り出したのか・・。経験的にいえば、人間の欲求は次から次へと生まれてくるものであるし、身近なことでいえば、今日の食事をどうしようかとか、寝る場所どうしようか、着る服どうしようか、など心配事も多いかもしれない。お金に不自由していない人でも、配偶者(妻や夫)との関係どうしたらいいのかとか、仕事や事業をどうしようかとか、友人との関係どうしようとか、学校の試験どうしようとか、子供のことどうしようかとか、日々の心配事に振りまわれていることが多いように思う。
「人生の目的」というのを、量子論的に考えてみたらどうなるのだろうか。あらゆるものがつながりあっていて、意識的なもの(主観的なもの)と客観的なもの(エネルギーなどを含めた物質的なもの)が区別できない、不可分一体であるとしたらどうだろう。神と言われる存在と自分という存在も不可分一体だとしたらどうだろう。こうなってくると「人生の目的」というものについても、自分とは別の存在からの指示というよりは、自分という意識の存在の中に見つけていくしかないような気がする。ただ、こう突き放されると自分で考えなければならないのか、とこれもまた不安になってくる。人間というのはまさに不安定な生き物である・・。人間の欲求は尽きることがないように思うが(ただし、同じようなことを繰り返していて中毒的になっていることはあるかもしれない)、「何でもよい」と言われると不安になる。しかし、これは神と言われる無限の存在の性格にも合致するように思われる。何でもありで何らの価値判断をしないということこそが無限という気がするからである。そうすると、「人生の目的」というのは、「特定の何か」ではなく、「何でもである」ということになる。人によってやりたいことは違うし、それこそが無限といわれる存在の性質に合致するように思う。ただ、このように考えたとき、次のような疑問が生じる。すなわち、「Aさんの欲求」と「Bさんの欲求」がぶつかり合うことが起きるのではないかということである。これは過去から未来へという直線的な世界しかないということから生じてくるように思う。もっとも、SF的だがいわゆるパラレルワールド(並行世界)を肯定すればその矛盾は回避できるし(「Aさんの欲求」が認められた世界と「Bさんの欲求」が認められた世界など無数の世界が存在しているのではないか)、おそらく、そのような考えが量子論的な考えにも合致するのではないか。
そこで、次に業(カルマ)(ただしカルマの定義自体も必ずしも統一されていないように思う)ということと「人生の目的」との関係も考えてみたい。誰かに何かをしたら自分に対して何倍にもなってかえってくるという一般的には因果の法則と言われるものとの関係である。人間の欲求には際限がない。そうするとその人間の欲求によって、誰かに何かをしてしまうということは当然にあるし、むしろ、誰かに何かをしないということのほうが無理というものであろう。それによる結果は当然に生じる。ただ、それは「悪い」ことだろうか。あるいは「良い」ことだろうか。その価値判断をしているのは誰なのか。無限の存在だろうか。無限の存在はあらゆる並行世界を認めている、そうだとすればその出来事は良くもなく、悪くもないということにならないであろうか。そうすると、その価値判断をしているのは自分ではないのか。無限の存在はそれについて価値判断はしないのではないか。それは単なる人間という存在の欲求(必要性)によって引き起こされた出来事であり、その世界を引き起こした原因の裏側をすべて知っている存在にとっては「ただの出来事」であって、それ以上のものではないのではないか。そうすると、その原因によって生じるとされる業(カルマ)というのは、本当は何も影響をもたないのではないか。無数の世界が存在しているとすると誰かの欲求が実現する世界と別の人の欲求が実現する世界があり(どちらも「する側」であり「される側」であるのだから)、そこに何も「良い」とか「悪い」とかはないのではないか。どちらの世界も存在しうるのだから・・。人間の欲求が変わるように「人生の目的」は少しずつ変化し、拡大していくように思う。人生の目的が拡大して拡大した先に何があるのか、それは自分で見つけるしかないのだろう。