道徳とは何か

道徳とは何か

 「道徳」とは何か?なかなかに難しい問いですが、一般的には「人間があると考えている善悪の規範」というような定義が多いようです。
 しかし、「道徳」を人が口にするとき、実際は、単なる内面の事柄を問題にしているのではなく、何らかの最高規範、あるいは神や仏の定めた法、若しくは見えない本質的・根本的な法という部分から演繹して、人や社会に対して何らかの統制を行おうとしているような気がします。「道徳的にどうなのか」と言われると何か、自分の行為が問題のような気がしてしまうのはそのせいだと思います。

 個人的には「道徳的にどうか」などと言われたときには、少し慎重になったほうが良いと考えています。私の全くの独自の見解ですが、自分としては次のように考えています。今のところですが・・
「本質的(根本的)なもの(神?仏?)は、ありとあらゆるもので例外はない。すべてのすべてである。すべては繋がっており、ひとつである。人間も例外ではない。そうすると、誰かにすることは自分にすることと同じである。したがって、誰かに対して害悪をしたいとは思わない。善のみをしたい。しかし、人間の限られた知性では何が「善」なのかはよくわからない(※)。よって、全てにとって最高に良い結果になることを祈りつつ、目の前の自分が良いと思うこと(結局のところ、自分がやりたいことということになるのかもしれませんが)に全力をあげるしかない。そして結果は受け入れる。人間の限られた知性で結果の良し悪しなど判断できないから」
※ ここで重要なことがあると思っています。世の中には、自分は知っているなどという人間が必ずいます。そして、不可思議なことを目にすることもあると思います。でも、それは「自分ができるようになったことではなく、自分の体験ではない」し、そのような話を「鵜呑みにする」のはどうかとも思っています。その意味で、再現性を重視した科学は重要だと思っています(少なくとも盲信するよりはマシだと思っています)。しかし、科学は全てを解明していない上、科学自体も変化しています。科学にすべての拠り所を求めることもできないとも思うのです。そこで、結局、最後の拠り所は、自分自身が実際に「体験」し「経験」したことしかないのではないかと思っています。歩みは遅いかもしれないけれども自分の体験(自分ができるようになったこと)を積み重ねていくことが最も確実な方法ではないか、と思っています。もっとも「経験」は主観的なものであり、「何をやりたいのか」という自分の思いによって「何を経験するか」も変わっていくから、すべてに対して、常に謙虚でありたいとも同時に思うのです(全てに対して謙虚であるというのは人間的には難しいですが・・・)。そして、「何を思うか」「何をしたいか」を突き詰めていくと、最終的には、「自分とは何か」という問いにもう一度直面しなければならないような気がしています(その意味では、普段自分が考えていること、思っていることが、いかに限られているか、その結果、いかに限られた経験をしているか、とは思うところです・・・)。

 

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